「死」について少し考えてみた

今日はTimさんの息子さんがやっているfarm に連れて行ってもらった。

羊1頭と、豚2頭を〆るところを、見学させてもらった。

〆るのにはfire gunを使っていた。

最初に羊を〆た。

見てるだけだったけど、心臓がすごくドキドキした。

Timさんと息子さんの、緊張感、ゾクゾクする感じも伝わってきた。

たぶんふたりとも、ほんとは命を奪う、なんてやりたくないと思う。けど、これは自然の摂理であることも認識している。

一部始終を見たけど、私は自分で想像していた以上にpeaceful, calmな感じだった。

(今回は私は直接手を下してはいない。見てただけ。)


豚を殺すとき、けっこうな悲鳴をあげていた。

地獄絵図、とも言えるし、スケールはちがうけど、津波で町が流されていくのと、そんなに変わらない、と思った。

戦争よりかはいいかな、って思った。(戦争も津波も直接触れたことはないけど)

魂が、体から抜けていく、、

天に召される、なくなる、、、

これが「死」というやつだ。

switch をoffにするのと、scale はちがうけど、そんなに変わらない。


自然界には、生も死もあふれている。

畑の草とりをする。

たまねぎの苗を間引きする。

レタスに群がっているカタツムリを殺す。

蚊やハチを殺す。

大根やにんじんを地面から抜く。

ヒルの頭を棒で叩いて、殺す。


私がやるこういうことと、今日の彼らの仕事は、そんなに変わらない。


でも、、、

ネズミを鍬でつぶす

野生の鹿を銃で殺す

このへんはまだちょっと難しいなあ

(わなは免許取ろうと思っている)


ましてや、、、

だれかを銃で殺す

ミサイルのスイッチを押す

やりたくないなあ、、


あと、、、

睡眠薬を大量に飲む

駅のホームから飛び下りる

これもやっぱりやりたくない、、、

やろうって気になるのもやだし、

(安楽死とかそういうことは考えるときがくるかもしれないけど)

自分のまわりの大事な人が、そういうことになるのもやっぱりちょっとやだなあ、、


でも「死」自体は怖いものじゃない気がする。

老いて、天寿をまっとうして、自然に(?)お迎えが来て死ぬのは、とても美しいと思う。

Timさんとこの竹。

自然に倒れて、朽ちて、次の世代を育む土になる。

こういうのは、とても美しいから、受け入れやすい。


命を奪う。絶つ。

自然の恩恵を受ける。

何がちがうんだろう?


やりたくないことは、やらなくていいのか?

やれることを、やればいいのか?

まだまだ、わからないことだらけ。

でも、すこーし上に伸びたような気がする。


今日のfarm には、子どもたちもいた。

一緒に歌をうたったり(ちょっと歌うたってみて!と言われて歌ったり笑)、写真撮ってインスタにあげたり(やって!と言われてやったり笑)、おんぶしたりだっこしたり、、、

一緒に遊んでくれて、ありがとう!笑


なんか、自分の小さいときの、ホームビデオ見てる気分だった笑

どこでも同じ!♡


Timさんが、「ここではみんなequal なんだよ」っていうの。

うんうん。I like that!


まとまらないけど、とにかく今日も私は生きている。

できれば世界も平和であることを祈って、、f:id:harucabbage:20190818153359j:plain

行動力

以前、「おどりば」に投稿したのだけど、こちらにも記しておきたいので、コピペ。

 

私はよく「行動力があるね」と他人から言われる。

 

平均よりは、あるかもしれない。

 

やってみたい!と思ったことはけっこうやるし、食べてみたい!と思ったものは食べるし。

そもそも、「~したい」よりも「~しよう」の方が多いかもしれない。

 

それはたぶん「自信」があるからだと思う。

「失敗してもどうにかなるだろうから、やってみよう!」というスイッチが、簡単にONになる。

なんでこうなったのかな?とちょっと自己分析をしてみる。

 

子どもの頃も今も、自分の頭の中に新しい「知識」が入ってくるのが好きだ。

 

ひらがな、カタカナ、漢字を覚えるのも早かった。

たぶんだけど3歳くらいの頃、「ノンタン」というネコのキャラクターのカルタにハマっていて、眠れない夜中にお父さんを起こして、一緒に付き合ってもらったくらいだ。笑

 

カラフルなつみ木やブロック、おりがみで遊ぶのが好きだったせいか、色の名前を覚えるのも早かったらしい。(これもたぶんだけど3歳くらいで、「やまぶきいろ」と「だいだいいろ」を区別してたと思う。我ながらすごい。)

あ、絵を描くのも好きだったし、国旗の絵本も好きだったなあ

 

そんな私は、「学校」というシステムの中で「優等生」だった。

何かを頭の中で考えたり、覚えたり、それをまた引きだしたりすることが好きだったし得意だったので、いわゆる「勉強ができる子」だった。「はるさんは頭がいいね~」と、たくさん言われた。

そういう人の多くは、班長や生徒会の役員など、「リーダー」に選ばれたりして(今思うと、4月生まれで少しオトナだった、ということもあるかもしれない。。。)、その結果、責任感が強くなったり、「自分がみんなの代表だから、率先してやらないと!」という気持ちが芽生えたりして、なんでも一生懸命やるようになる、のではないかと思う。

少なくともそれは先生たちから見たらとても印象がよく、通知表なんかではけっこういつも好評価をもらっていた。

 

こういう、外からの評価は、私の根底にある「自信」を構成しているひとつだと言える。

だって、ほめられたらうれしいもん!

 

でも、うちの両親は、例えば私がテストでいい点を取っても、「よかったね~。」くらいで、私が期待していたほどほめちぎってはくれなかった。笑

これは特に中学生の頃で、学校だと、同級生が「すごーい!」とたくさん言ってくれるので、それは素直にうれしかったし、「お父さんとお母さんも私のことほめちぎってくれるかな?」なんて調子にのってテストを見せるのだけど、毎回見事に「あ、そんなにたいしたことじゃないと思ってるのね、、、」と、少し打ち砕かれていた。笑

 

今思うと、両親のこの対応は、けっこうよかったと思う。

父だったか母だったか忘れたけど、「この学校の中ではできる方かもしれないけど、外に出たらそういう人が他にもいると思うよ。」と言われたことを今でも覚えている。

 

高校や大学を選ぶときも、相談こそしたが、「ここに行きなさい」とか言われたことは全くなくて、けっこうその話し合いの様子は「会議」みたいな感じだった。

特に「家族会議」とうたっていたわけではないけど、うちの家族は議論が好きだと思う。

 

ここで何が言いたいかというと、家族のサポートこそあったが、私はわりと「自分のことを自分で決められる」環境にいたのだと思う。

何かにtryして、いい思いをしてもいやな思いをしても、それは自分で選んできた道だ、そして私はちゃんとその道の上に自分の足で立っている。そういう感覚が、自信につながっている。

ということも言えることだろう。

 

他にも私の「自信」を構成している要素はあるだろうけど、とにかく、基本的に「自信」がある人生を歩んできた。

 

そんな私が、ものすごく自信を失った時期がある。

25歳くらいのときだ。

「私なんて、米つぶみたいなもんだ…いや米って人のおなかを満たしてくれるし、そんなこと言ったら米つぶに失礼だあああ…!!!!」みたいなことを、毎日思っていた。時にはごまになったり、きな粉になったりしながら。

 

それは中学校の先生をやっていたときで、初めて担任を持たせてもらい、生徒のことやら保護者のことやら、はたまた学校の仕事(校務分掌)やら次の日の授業の準備、宿題のチェック、テストの準備になんやかんやと、とにかくいろいろなことに最大限の「気」を使いながら、なんだかよくわからないまま次々と湧いてくる仕事にぶつかっていた。時には日付をまたいで学校にいたこともあった。I know, it’s CRAZY!

 

何かを考え出すと止まらないし、なんでもできるだけ完璧にやりたいし、ひとりひとりの子どもにちゃんと向き合わないとダメだと思ってるし、、、そういうくそまじめな性格が、裏目に出た。

ある日突然、学校に行けなくなった。

いや、行ったんだけど、涙が止まらないし心臓がバクバクする、頭も働かないし、体も思うように動かせない。

とても生徒の前に立てる状態ではなかった。

 

数日後、4ヶ月の療養休暇を取ることになった。

精神科にも行った。

診断名は「うつ病」だった。

 

そういえばもう何回も、「死にたい」と思っていたし、

休んでいても一日中ふとんから出られないし、

「やる気」のやの字(どころか最初の1画目)もどこかに行ってしまっていた。

 

そう、それはそれまでの人生の「私」とは正反対な「私」だった。

 

休んで少しした頃、

「今まで、がんばればなんとかなる!という法則に基づいて生きてきたけど、どうやらがんばってもどうにもならないこともあるらしい。」ということを、ふとんの中で悟った。

 

私が休んでも、学校もクラスも、私が担当していた授業も、みんな、私がいなくても回っていた。

悔しいけど、それが事実だった。

でも、その事実を知ったとき、少しラクになった。

 

その後、私は復帰したが、2年後にまた行けなくなった。

 

その時は前回とは状況が少し違ったが、飲んでいた抗うつ薬を勝手にやめてしまっていたことも、要因の一つだったかもしれない。

「このまま学校の先生を続けるということは、この薬をずっと飲み続けるっていうことかもしれないなぁ…」ということに気づいて、辞めることにした。

 

だって健康がいちばん大事だもん。

またふとんの中で「死にたい」と思い続ける日々なんていやだもん。

 

 

 

 

そんなわけで、学校の先生を辞めて、、、2年ちょっと。あれ、意外と短い。笑

今、私はニュージーランドにいる。薬はもう飲んでいない。

かつて育んできた「自信」は、徐々に復活(なんならpower up笑)して、今の私をめちゃくちゃ助けている。

そしてまた「新しい環境でも楽しみながらなんとかやっていけている」ことで、自信をつけている。

 

日本の人は、こんなに自信たっぷりな人、いやかもしれない。笑

でも、しょうがない、これが私だから。

くそまじめなのもしょうがない、そういう性質だから。

だから、それが生かせる場所を探して、生きよう。

そう思って、日々、生きている。

mind opening

f:id:harucabbage:20190803121650j:plain最近、まじでmind opening が止まらない\( ˆoˆ )/

少年漫画の主人公になった感じ。スターウォーズ、?

毎日新しい発見があって、新しい自分!すごい。


今の WWOOFホスト、Timさんがまじ師匠で、とてもためになる言葉を言ってくれる。

けっこう高い木に登るときに、怖くて「ひー!」ってなってたら、"Find your centre." って言われて、深呼吸して集中してtry to find my centre したら、登れた!!いえーい\( ˆoˆ )/


他にも、"Follow your heart."とか、、

Timさんから言われたわけじゃないけど、"Different, but same."とか、"Don’t think, just feel."とか、いろんなひらめきが止まらなくて、いろんなことが「わかる」ようになってきた。まじですごい。なにこれ!笑


まあとにかく思ったことを口にすると、Timさんも(今日まで一緒にWWOOFしてたShawnも)自分のopinion をshareしてくれるので、それがすごく成長を促してくれてる感じ。


でも私もTimさんにとっては師匠なんだって!

master and apprentice each other! We’re equal!


ていうか、私たまに日本語で話すようになってきた。全部はわかんなくても、たまにわかるらしい。えー、そうなの?すごいー!🤣


そんなTimさんに「リーダーになれる」と言われた!

おおー!


でも実は前にもそんなようなことを言われたことはある!

みんながみんな、新しいことをcreate できるわけじゃないらしい。そりゃそうだ。

あ、これ大島さんも言ってたな!笑


そんなわけで、just be myself, follow my heartで生きたいと思います。

別にがんばらない。がんばらないことをがんばる。(I mean, 変な力を入れない)


Maybe this is a journey to look for good attitude なんだ。


あ、あと、昨日めっちゃ久しぶりに竹馬やった。stilts って言うらしい。そんで思ったけど、language is same as stilts.だ。language というかcommunication ? find your center で、good balance だとなんかいい気がする。よりわかる。


前から4技能(聞く、話す、書く、読む)についてはバランスが大事よね(そして日本の英語教育は圧倒的に「話す」が足りてない)と思っていたけど、、


なんかmental的にも、出すぎず、引っ込みすぎず、聞きたくない、話したくないと思ったらそうすればいいし、自分がいちばん心地よいと思うポイントを探すのがいいんじゃないか、と、今のところ思う。明日になったらちがうことを言ってるかもしれないけど!笑


いろいろつらつらと書いたけど、今日はこのへんで。しーゆー!

高校1年から12年一緒にいた人と別れた話

タイトルの通り、私にはそういう関係だった人がいる。

日本語で言えば「元夫」、英語で言えば”ex-husband”だ。

 

彼とは高校1年の夏から付き合い始めて、途中、何ヶ月か別れていた期間もあったけど、なんだかんだで12年くらい一緒にいた。

 

高校生のとき、家庭科の授業で、「これからの人生をデザインしてみよう」みたいなことをやったような気がするのだけど、

そのときの私は、「25歳くらいで結婚できたらいいな」とか「30歳までには子ども産みたいな」とか考えていて、実現するかはわからないけど、相手は当時つきあったいたその人を想像していた。

 

大学生の時も、カナダにワーホリに行っていた時も、毎日「おはよう♡」「おやすみ♡」とか言うようなイマドキの若いカップル(若干の偏見。笑)ではなかったけど、続いていて、お互いに社会人になるタイミングで、「結婚しますか」ということになり、した。

 

その時点でもう8年くらいつきあっていたし、カナダと日本の遠距離でも続いていたし、なにより私は一緒にいるのが「ラク」と思っていた。

そこから別れて新しい人を探すのも、「めんどう」と思っていた部分もある。(人生設計的に)

 

結婚生活は4年くらい。

その間、働く場所が離れていたので、2年くらいは「週末婚」だったり、私が働きすぎてうつになったり、いろいろあった。

でもかなり支えてくれたし、そのことについてはすごく感謝してる。

 

共通の趣味の山登りも楽しかった。

 

苦しくなっていったのは、私が2回目にうつになって、仕事を休んでからだと思う。

 

当時、私は、「子どもがほしい」とすごく思っていた。(これもやっぱり人生設計的に)

 

それもあって、飲んでいた抗うつ薬を勝手にやめてしまっていた。

(仕事が忙しくて、病院に行くのをやめてしまっていた、というのもある。あと、仕事に対する違和感や、いとこの死も重なって、再発したと自己分析している。)

 

また学校に行けなくなって、何もやる気がしなくて、そんな自分を責めて、ひたすら「自分なんて死んだ方がマシだ」と思っていた。

ひどい時は夜の8時に彼が帰ってくるまで、1回もふとんから出なかったこともあった。

 

そんな私と過ごしているうちに、彼の精神状態も、だんだん追いつめられていった。

 

それまで、「子どもは5人ほしい、サッカーチーム作る!」みたいなこと言ってたけど笑、

 

「(私が)また、うつになるの防げなかった。もし子どもがいてまたこうなったら、一人で面倒見てく自信ない…。ていうか子ども、ほしくないのかも…」ってなっちゃった。

 

学校の先生やめれば大丈夫だと思うんだけどなあ。

子どもいたらちゃんと生活すると思うんだけどなあ。

 

私はそう思っていたけど、家にいてもゴロゴロしてばっかりだったので、全然説得力がなかった。

 

いろんな面で、「私いま大変だからいいでしょ」みたいな感じで、彼に寄りかかって、潰れる寸前まで疲弊させてしまったのだと、今なら思う。ごめんね。

 

でもその時はそうするのが精一杯だったなあ。うつおそるべし。

 

私のうつはだんだんよくなっていったけど、

そんなこんなで、私たちふたりの歯車はだいぶずれてしまっていた。

一緒にいることがふたりにとって苦しいことなら、別れた方がいいね、という結論に至った。

 

別れる決断をして、実家に引っ越して、離婚届を出して、離れて暮らして、日々が過ぎていって、、

ひとりになったら自分が壊れるような気がして、けっこうガンガン働いていた。

もちろん、生活していくためのお金を稼がなきゃ、とも思っていたけど、気を紛らわせるためでもあったなあ。よくがんばりました、自分。

 

しばらくの間、けっこう辛かった。

 

ずいぶん長く一緒にいたもんなあ。

人生の半分近くである。その当時。

 

家族というか、自分の一部というか、そういうものを失った気分だった。

 

でも、「めっちゃ好きな人にフラれたから悲しい」という感覚はなかった。

「うつになってごめんなさい」とは思っていた。(これは今も思ってる。しょうがなかったとも思うけど)

 

なんだろう、この苦しみは。

心臓のあたりがギュウっとなりながら、しぼりだした。

 

ああ、そうか。

 

私は、自分が思い描いていた人生のレールから脱線したんだ。

 

それが悔しいし、苦しいんだ。

 

祖父母に申し訳なく感じていて、離婚したことを言うのが怖かったのだけど、それも「期待にそえず、すみません」という気持ちからだった。

 

なぜなら彼らは、私が結婚して子どもを産んで、育てて、家庭を築いていって、という姿をすごく楽しみにしていたと思うから。

 

それが一般的な幸せだと、なんだか私たちは刷り込まれている感じがする。

私たち、と書いたのは、少なくともそのときの私と、日本で出会う多くの人たちがそういう感覚を持っているような気がするから。気がする、でほんとはどうかわからないけど。

 

それに気づいた時、「そういう形が当たり前」と思っている感覚が、すごく気持ち悪く感じた。

 

別に、みんながみんなその形にはまらなくても、

 

生きてればいいじゃん。

 

自分で自分のこと好きでいて、

 

楽しませてあげられることが、幸せなんじゃないか。

 

他人に幸せにしてもらおうとするから、寄りかかって倒してしまう。

 

というようなことを、私は新しい価値観として手に入れた。

 

同世代の友達と、よく「私たちって、人生ゲームみたいなすごろくの上を進んでいて、追い抜かれたり、追い越したりしてる感じがするよね。」というような話をする。

 

私は「ふりだしに戻る」のマスに止まってしまって、ブラックホールに落ちたような気分でいたけど、

 

どうやら今度は別バージョンのすごろくらしいぞ。

 

ニュージーランド版?笑

 

うつになって、安定したお給料をもらえる仕事を辞めて、離婚もして、「つらい」と思っていたけど、

 

それを抜けたら、なんか人生楽しくなってきた。

今の自分、けっこう好きだな。

 

もちろんたまには、ずーーーーーーん。。。ってなる日もあるけど、

 

まだまだ、これからなんでもできるような気がする。

 

どうなっていくのかな、私の人生。

楽しみだね。

 

 

P.S. My best friend is my ex-husband, だなあ。

Jo in Turangi!

今日はジョーという女性のことを書いておこうと思う。

 

 ジョーにはTurangi という町のバッパーで出会った。Turangiはトラウトフィッシングが有名な町だけど、今回の私の目的は、Tongariro Alpine Crossing というトレッキングコースに挑戦することで、「Turangiからシャトルバスが出ているからそれを利用するといい」という情報を元にやって来た。

 

彼女はそこで働いていて、チェックインを済ませた後も「あなたの国はどんな感じ?」とかニュージーランドの首相の話(ジョーはあんまりジャシンダさんのことをよく思っていないみたいだった。「首相になって最初にしたことといえば、TPPにサインしたことなのよ!?」と言っていた。それはたしかに怒る理由になる。)とか話して、実は「ちょっとグイグイくる感じが疲れちゃいそう、、、」と思っていた。(大きい町のバッパーは基本的にこちらから何か尋ねたりしない限りスタッフさんが個人的な話をしてくることはあんまりなかった。)

 

当初の予定では、着いた次の日にトンガリロに挑戦しようと思っていたのだけれど、天気があまり良くなくて、シャトルバスもキャンセルになってしまったので、ジョーのオススメを聞いて、車でちょっと行ったところにある湖に行くことにした。私の他にも何人か、「トンガリロ、行こうと思ってたんだけどね~」という旅人たちがいて、夜はその人たちと暖炉を囲んでおしゃべりしたりして、とってもアットホームな良いバッパーだった!

 

次の日、湖から帰って来てお茶を飲んでいると、バッパーのチャイムが鳴った。ドアを開けるとおだんごあたまのお姉さんが立っていて、レインウェア姿の私を見て、「トンガリロにはもう行って来た!?」と興味津々な感じで聞いてきた。

「まだー!ほんとは今日行こうと思ってたけど、天気悪くて、、、」

「そうだよね~。私も天気予報チェックしてたんだけど、、」

「明日はどうかな?」

「たぶん今日よりはいいと思う。」

「スタッフさんがチェックしてくれると思うから、聞いてみよう」

というようなことを英語でやりとりし、(後で聞いたら彼女はポルトガル出身のクリスという女性で、アジアやニュージーランドを旅している途中だった)ジョーが来るのを待った。

 

ジョーが来たら天気を確認してもらい、シャトルバスの予約、私は延泊の支払いもした。バスの乗り場には車で行く必要があったので、クリスと一緒に行くことにした。

 

なんでそこまでして行きたかったかというと、冬になる前のラストチャンス!だと思ったから。もちろんあったかくなってからまた来るのもありだけど、ニュージーランドには他にもいっぱい行きたい場所があるので、「せっかく近くにいるし、行ける時に行っておこう!」と思ったのだ。

 

そんなこんなで、私たちガールズ(クリスは35歳、私は30歳だけど笑)ふたりは、bloody cold(めっちゃ寒い)と思われるトンガリロに行くことにし、「何時に出発する?」とか計画を立てていると、ジョーが、「明日帰って来たらディナーを作ってあげるよ!ワインでも飲もう~!」と言う。ジョーの英語はめっちゃ速いので、その時はよくわかっていなくて、「冗談?本気?どっちだろ~?まあワイン買ってあるし、帰って来たら美味しいディナーっていうのは良いな!」くらいに思っていた。笑

 

さて次の日、私たちは無事にbloody coldなトンガリロから帰還し、(トンガリロの話は割愛するけど、日本の山とはまた違う、殺風景だけどありのままの自然に触れられる、でもたまに息を呑むようなbeautifulな景色に出会えるトレッキングコースだった!)

「晩ごはんどう思う?ジョーほんとに作ってくれるのかな?」なんて話をしながら宿へ。

 

するとなんと、ワインを片手にくつろぐジョーが!

「ちょうど今、料理し終わったところだよ~!」と言って、私たちを迎えてくれた!

 

「よく行って来たね~!めっちゃ寒かったでしょ!?」

「うん!でも雨も降らなかったし、風もそこまで強くなかったから、楽しめたよ!」

「それは良かった~!実はね!あの山(たぶんトンガリロのこと)は、私のひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひい、、、、、、おじいちゃんが、初めて登った人なのよ~~~~!!!!」とジョー。

「!?」となる私たち。どういうこと!?

 

ジョーは私たちに、マオリの人々のことを話してくれた。

そのひいひい×∞おじいちゃんというのは、ニュージーランドの先住民、マオリ族の長だったようで、「この地を見渡して、どうやって暮らしていくか考えた」のだという。

そして、今この地での生活がある。

 

ジョー自身は、父親がマオリでTurangi生まれ、母親はデンマークから来たのだという。短い金髪で西洋人顔の彼女は、言われてみなければマオリの血が流れているということがわからなかった。(たぶん、こういう人は他にもいっぱいいるんじゃないかな、、)

 

でもジョーは自分がマオリのバックグラウンドを持っていることをとても誇りに思っている感じで、その日のディナーも「マオリの人たちが食べてた感じにしたよ!」と言って、なんと鹿肉(venison)料理を作ってくれていた!(ちなみに鹿はバッパーのオーナー、ローガンがハントして来たやつ!)

 

Venison=鹿肉 ということがやっとわかって笑、興奮する私!!笑

「私のホームタウン、長野でも鹿食べるよ!イノシシも!」

わ~~、なんか!なんかうれしい!!!

 

マオリの人たちは、鹿とかトラウト(マス)とか、自然のものを採って食べてたんだよ。山菜とかも。this is how we live, eh?(これが私たちが生きていく方法でしょ?) トラウトもめっちゃ美味しいから、食べさせてあげたかったな~」

マオリの世界では、お金を持ってる人が尊敬されるんじゃなくて、鹿肉とかをいかに美味しく料理できるかで人に尊敬されるかどうか決まる」

「たまに、キッチンにゴキブリが出た!って文句を言う人がいるんだけど、ニュージーランドにもともと生えてる木や植物は、ゴキブリたちのすみかなんだよ。だから汚いから来る訳じゃなく、すぐ近くだから来るだけ。」

「私が子供の頃は、マオリであることは隠さないといけなくて、マオリ語も話すことが禁じられていた。今はマオリの文化を残していこう、っていう風潮になっているけど、you know? 失われたものはもう戻らないのよ。」

「最近はマオリの人たちも、スマホばっかりいじって、マックとかケンタッキーとかばっかりいく人もいるけどね!まったく、この世界はどうなっていくのかね~」

とか、いろんな話をしてくれるジョー。

 

正直、全部しっかりと英語、言葉が聞き取れた訳ではないけど、”I feel something!!!!!”という感じで、彼女の考えてること、信念みたいなものが、私が考えてることにすごく重なっていて、spirit(魂)の部分で「わかるー!」って感じがした!言葉の壁を越えるというのはこういうことか~

 

ジョーも、「こうやってゲストにディナーを振る舞うということは、いっつもしている訳じゃないけど、今日はあなたたちみたいなniceな人が、私の先祖が開拓した山に寒い中行って来て、しかも初めてあった二人で!just perfect! 」って言ってた。笑

 

あと、ディナーを食べているとジョーの娘たち(16歳と18歳だったかな?)も来て、ギターひきながらいろんな歌(マオリの歌も!)を歌ってくれた!めっちゃいい声で!beautiful!

 

ロトルアという町で、けっこう観光地化した「マオリ村」にも行ったけど(それはそれでおもしろかった!)、こうやって、「生の」声を聞けるって本当にありがたい。すごく良い経験、出会いだった。

 

は~、なんかすごい日だったな。笑

ちなみにその翌日、こっち来てから初めての風邪をひきました笑

たぶんエネルギーをギリギリまで使ったんだな!

 

Kia ora, Jo!!!

 

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Kia Ora! New Zealand!

My life in New Zealand has just started! 

ニュージーランド生活始まったので、ブログをやってみることにしました!

 

生活といってもまだバッパーにstayingなので旅行気分。

 

とりあえずNZで一番おっきいと言われる都市 Auckland オークランド に来て4日目です。

 

今のところ、オークランドの印象は diversity! ;多様性 って感じ。

 

いろんな肌の色、顔つき、体格、服装の人たちがいて、

いろんな言語がとびかい、

いろんな国のごはんがあり

(Japanese もめっちゃある。sushi is everywhere!って感じ。)

 

日本でも東京とかだとそうかもしれないけど、でもやっぱり多くは“日本人”だと思うので、そこが大きく違うな、と思います。

 

あんまり「どこから来たの?」って聞かれないのは、旅行者でも滞在者でも、いろんな人がいるのが『当たり前』だからなんだろうな。

 

ちなみにNaganoの知名度は、

40%くらいかな?

we had winter olympic games about 20 yrs ago.

っていうと、あ〜ってなる人もいる。

 

日本にけっこう行ったことあるよ!っていうCAさんはsnow monkies 見たよって言ってたな。

 

自分の英語について分析すると、

たまに"Sorry?"って聞き返されるけど、1対1で話すときはだいたいcommunicateできてるかな、という感じ。

まあ、何かを見せたり、書いてもらったり、視覚的な補助もあるんだけど

 

あと、3日くらい日本語あんまり話してなかったら、

旅行で来ていた日本人のご夫婦と話すとき、なんかもどかしい感じ(パッと出てこない)になったよね笑

 

多言語話す人たちって、どうやってswitchしてるんだろう???

パッとできるのかな?慣れ?

 

いろいろ考えたことはあるけど、今回はこのへんで!

 

Cheers! ;)